◆ガンと仲良く生きる      増田 武雄

○はじめに
近ごろ、機会のあるごとに「私はガンと仲良く共存共栄で生きているんです。ガンは恐いものではあ
りませんよ」と話すことにしております。相手によっては、まず信じてもらえなかったり、蒼い顔になってびっくりされたり、ときには、あなたは初期で比較的軽くすんだから本当の恐さを知らないのじゃないか、と云われたりもします。
 現代の社会通念から考えれば、ガンと仲良く生きるなどとは、およそふざけた発言のそしりをまぬがれないでしょう。たしかにガンは恐い。その恐さは私自身だれよりも承知しているつもりです。過去に肉親を三人もガンで亡くし、末期の悲惨な姿を目の当りに見てきました。そのつらさは例えようもありません。そのうえ、自分までが喉頭ガンで断崖に立たされる思いを何度も経験しました。軽はずみな気持ちでは、とうてい口にすることはできません。
 現代医学の科学療法を経た後、甲田療法を4年半、いろいろな体験を積み、失敗と努力を重ねて辿りついた私なりの結論は「ガンは正しい対処の方法をしれば恐くない」ということです。
 たとえば、いかなる獰猛な猛獣でもベテランの猛獣使いの手にかかればペットも同然だといわれます。
私は、甲田先生から、ガンという猛獣をペットにする方法を教わりました。
 かわいいペットとならば仲良くすることもできるはずです。まして、ガンが自分自身の細胞の一部であってみれば身内も同然です。
 もちろん、人それぞれの症例があり、私のようなケースばかりではないでしょう。だれもが同じ道を歩むことはできません。ただ、どのように困難な道であろうとも、難関を切り開いていく意欲を怠らなければ、やがて必ず希望の灯も見えてくるはずです。
 ふりかえってみますと、私の人生、実にガンとのかかわりが深いとつくづく実感させられるこの頃です。
ひところは、ガンを恐れ、憎み、何とか避けられないものかと悩んだこともありましたが、今では、どこまでもガンと仲良く天寿を全うしたいと思っています。
 私のささやかな体験を綴ってみます。お役にたつことができれば幸いです。

○生たちから発病
 昭和7年、名古屋市に生れました。職業は画家、現在は愛知県知多半島に住み、油絵の製作と美術教室を開いて子供たちに絵を教えることを仕事にしています。
 小学5年生のときに父親を直腸ガンで亡くし、その2年後には母親を上顎の骨ガンで失いました。とくに母親がガンの手術を受けたときは、丁度終戦の秋でしたから大変な時代でした。手術の最中に麻酔が切れてしまって、気丈な母の悲鳴が今でも身を切られるように思い出されます。ガンは恐いと子供心に身にしみて感じておりましたが、12年前には姉が胃ガンで倒れ、病院では治療不能、自宅で半年看病をしました。ガンという病気は遺伝することはないけれども、犯されやすい体質を受けつくものなのだろうか。
 常に不安を感じながら予防の知識もなく、幼いころから病院の世話になったこともありませんでしたから、日常生活のなかでは特に注意することもなく過ごしておりました。
 俗に、昭和一桁生まれは食い意地がはっていると申します。食糧の乏しい時代を耐えた反動でしょうか、食べることには人一倍関心を持つ世代だそうです。私もその例に漏れず、戦中戦後の食糧難からは何でも食べられる時代に好転したころには、肉食に走り大食をするようになっていました。アルコールも好物で、友人たちと縄のれんで一杯やるのが何よりの楽しみ、家でも毎晩仕事を終えてからウィスキーのグラスを傾け、つまみにはチーズやサラミといった状態でした。
 高カロリー食を好んで食べる習慣でしたから、当然70キロを超える肥満体で、すでに糖尿病や高血圧などの成人病の兆候もあって、健康診断の折には医師から時折注意を受けていました。
 そうしたガンに犯される土壌は充分にあったわけで、昭和54年頃でしょうか、自分の声の異常に気づきました。風邪でもないのに時々声がかすれるのです。いつも教室で大きな声で話をしているからだと、あまり気にもとめませんでした。しかしだんだんかすれがひどくなり、特に体が疲れたり精神的に緊張したときなど非常に声が出しづらく、朝起きて全然出せないこともありました。昭和56年1月、思い余って近所の専門医の診察を受けました。「声帯にポリープができています。簡単な手術で取れるから名古屋の日赤病院を紹介してあげましょう」といわれて2月はじめ、日赤病院へ入院して手術を受けました。比較的簡単にすんで1週間後には退院の予定でした。
ところが、急に情勢が変わってしまったのです。切除したポリープの組織検査の結果、ガン細胞が発見されたのです。早速、翌日から放射線治療を17日間つづけました。併行して大量の薬も飲みましたが、いずれも効果なく手術以外に方法はないと宣告されました。
 喉頭ガンの手術は、切れば治るというものではありません。声帯を切り取ってしまいますから本来の声は失ってしまいます。ですから、食道発声といって胃の中からわずかに出てくる空気、いわゆるゲップの現象を応用した発声法を考えるわけです。これとても、長期間のリハビリテーションで少しばかりの会話が可能になるくらいのものです。大変な後遺症だと思うのです。
 私は懸命になって他の治療法について相談しました。丸山ワクチン、制ガン剤の使用、声帯を取らない部分的な手術方法など、どのような方法でも声を失うことだけは何としても免れたい気持ちでした。
 現代医学で考えられる方法は、一に手術、二に手術、三に薬、四番目にワクチンであまりおすすめできません。また声帯の部分手術は再発の危険がありますので、はじめから全部切除した方がよろしい。あまり迷っていると命が危ない、よくお考え下さい」と。
 病院側の説明に一応納得したものの、1週間くらいは悩み苦しみ眠れない夜が続きました。「君は絵描きじゃないか、しゃべれなくても絵は描ける。命あっての物種だから」という意見もありましたが、もう一つ決断をしかねたことは、美術教室の子供たちと接することが私のもう一つの生甲斐でもあったからです。
 しかし、所詮はいくら悩んでも情勢は手術しかありません。結局、手術を承認することになり、次の週に執刀と決りました。

○甲田先生との出会い
 人間の運命とは不思議なものです。断頭台に立たされた思いで、すっかり観念していた私の人生を1冊の本が大きく変えたのです。翌日、姉が訪れてきまして「名古屋のMさんが以前に入院しておられた関西の病院で、難病に苦しむ人たちが素晴らしい効果をあげている」と1冊の本「現代医学の盲点をつく」を手渡してくれたのです。これが甲田先生を知る最初でした。その夜、病院のベッドで一気に読了、絶望の闇夜に一点の光明を見出した思いで深く感銘を受けました。手術を承認したものの、もう一つ心から吹っ切れなかった私は、甲田先生の診察を受けてみようと決心し、その翌日には退院していました。
 このときは、病院の耳鼻科の部長室で30分近くも掛け合いました。気の弱い性格の私に、よくあのような勇気と積極さが出たものだと感無量です。
 その年の3月25日、期待に胸をはずませて甲田医院を訪れました。「ガンは切り取ってしまうのは簡単だが、この治療は厳しくて大変ですよ、これを徹底的にやれば治ります。いいですか、がんばってできますか?」、先生は何回も念を押されて生菜食のメニューを渡されました。私は、どのように厳しい治療でも病院で悩み苦しみぬいたことを思えばなんとか耐えていけると、徹底的に実行してみることを心に誓いました。

○生菜食療法の実践
 翌日から早速、生菜食療法の開始です。食事の内容は、玄米粉80g、葉菜250g、大根100g、人参120g、山芋30g、塩5g、レモン半個。葉菜はミキサーで泥状に、根菜はミキサーで泥状に、根菜はオロして食べる。これだけを1日2回、昼と夕で朝食はなし、それに水と柿茶を1日一升以上とありました。
 覚悟はしていたものの、はじめてこの食事を口にしたときは、これほど人間の味覚を無視した食べ物があるだろうかと情けなく思いました。青汁は半分も飲めず、玄米粉は喉を通すのがやっと、といった状態でした。それでも命がかかっていますから歯を喰いしばってがんばっているうちに、1週間目くらいから次第に美味しくなって青汁など大きなジョッキになみなみと満たして一気に飲みほせるほどになりました。
家族の料理の調味料の匂いには、はじめのうちは大分悩まされました。とくに朝食の味噌汁の香りが部屋中にただようときなどは思わず2階へ逃げていきましたね。
 そのうちに味も匂いも気にならなくなってきますと、心に余裕も出て、葉菜の種類を変えて青汁の味覚に変化をつけたり、大根や人参なども、ときには短冊形に切ってポリポリ齧りました。また玄米粉も大根オロシと山芋でねって食べると食べやすくなることも知り、粉ばかりでなく米粒を齧ってみたこともあります。
 食器類にも気を配り、盛り付けの工夫など限られた制約のなかで少しでも満足感の得られるよう努力しました。
 食事の外に、いろいろな運動をしなければなりません。裸療法、西式六大法則運動、温冷浴、キャハン療法、いもシップなどで、徐々に慣れてきましたが、とくに裸療法の11回が時間のかかることには閉口しました。1日中、脱いだり着たりの連続で忙しさといったらありませんでした。ガン患者だからといって安静にしているわけにはまいりません。早朝5時に起床、すぐに始めても全部消化したころにはもう夜の8時です。これはよほど精神を引き締めても全部消化した頃にはもう夜の8時です。これは余程精神を引き締めてかからないとできないと思い、治療日程表を作成し、一つずつチェックをしながら消化していきました。
 最初のうちは苦しい思いをしたこの治療も1週間も経つと慣れてきまして、そのころにはもう皮膚の色艶に変化が起きてきました。朝、なにげなく顔を洗っていて驚きました。ほっぺたが石けんをぬったようにツルツルすべるのです。鏡をみるとなんとなく顔色が良くなっているのがわかりました。効果が実感できると治療にも一段と力が入りました。
 1ヶ月後の4月下旬、甲田先生の2回目の診察を受けました。先生から「顔や体の色艶が非常に良くなっている。がんばってきましたね」と喜んでいただきました。
 体重も発病のころは68キロ、生菜食開始時で62キロ、1ヶ月後には52キロとどんどん減少して体も軽く爽やかで疲れることもなく、睡眠時間も短くて寝汗も出なくなり、いろいろの変化で体質が良くなってきていることを痛感しました。
 3ヶ月を経た7月1日「1度喉の検査をしてみたら」と、先生のご指示もあり、近くの専門医を訪ね精密検査を受けました。レントゲン写真や鼻から喉への内視鏡を通して詳細に検査をした医師は「手術の傷跡は残っているがガン細胞は見当たりません。以前からあったなんて信じられないことだが、それが事実ならば、あなたの今やっている治療が成功したんでしょうね。もし表面に出ていない内部にひそんでいるガン細胞があるなら、今後2ヶ月を経て出て来ないはずがないから、念のために2ヶ月後にもう1度来て下さい」といわれました。
 2ヵ月後の九月7日、2度目の検査の結果は「声帯もその周辺もきれいなものです。はれているところもありません。ガン細胞らしきものは全然見当たりませんね。もう大丈夫でしょう」「もう完全に治ったと思って間違いありませんでしょうか」「そう思っていただいてよろしい。」私は思わず心の中で「バンザイ」と叫びました。
 生菜食療法開始から、わずか3ヶ月ですっかりガンが消失してしまっていたのです。嬉しさとともに、改めて生菜食の偉効と甲田先生への感謝の気持ちが湧き出てくる思いでした。
 その後の検査の結果もすべて良好でした。こうして最初の1年間はまことに順風満帆で、体質の改善も着々と進み、身体全体がまるで大掃除でもしたようにすっきりしていました。また喉の調子もすっかり良くなり、かすれていた声も完全に昔に戻り、発声も軽く、歌も唄える喜びを深くかみしめました。

○ガンの再発
 翌、昭和57年3月、「目標の1年間、ともかくがんばったんだから、もう普通食に戻れる」そのような期待を持った私の顔をみて先生が「普通食に戻しましょうか」といってくださいました。回復食から慎重に、くれぐれも気をつけるように、先生から注意はあったのですが、やはり油断がありました。力量もなかったのです。仕事を始めて、張り切って製作した絵が展覧会で入賞、授賞式後のパーティでは、友人たちが本当に喜んでくれて嬉しさのあまりビールで乾杯、一杯が二杯とグラスを交わす。ご馳走も少しくらいならと手がのびる。これがつまづきの元でした。
 絵の関係では、展覧会があれば必ずレセプションを催す。仲間の個展ではオープニングパーティー、その他、仕事の打合せや会合の後には会食、ETC.自分を取り巻く環境の中で対応していくことの難しさをしみじみ感じました。その上、つぎつぎと仕事のスケジュールに追われて裸療法の回数もだんだんと減ってきておりました。
 生活のリズムが狂ってくると、しばらくして喉の方にも異常を感じるようになりました。
 声がまたかすれ出したのです。たまたま甲田先生から電話がかかり、声がおかしいのを厳しく指摘されました。
 近所の専門医の検査では、先の小手術の後の炎症だろうとのことで一応は安心しましたが、念のために、9月のはじめ大病院で精密検査を受けることにしました。ガンが再発していたのです。内視鏡で撮ったビデオテープを大きなテレビの画面に写しながら「あなたは自分の立場を知っているから言うけれども、これがガン細胞です。」医師の指さすところに私のガン細胞が、画面いっぱいに拡大された喉頭部にビー玉くらいの大きさで不気味に白く浮き出ておりました。脳天に鉄槌を打たれたような衝撃でした。「ただちに手術をするから入院の手続きをするように」とのこと。「ちょっと待って下さい。私は今、食事療法を中心とした治療をしていますから手術を受けることはできません」「そんなのんきなことを言っている場合ではありません。進行性のものだから呼吸困難になってくるのは時間の問題ですよ。」
 「医師の時間の問題」という言葉は本当にショックでした。体中が恐怖心でしびれるような思いでしたが「何としても生菜食で治してみせる」と勇気をふりしぼって手術を断りました。
 早速、甲田先生に相談しましたところ、「体調も落ちていますよ。とにかく3ヶ月の勝負です。徹底的に生菜食を実行して下さい。裸療法も11回、今度は無期限です」と、厳しいお言葉で今までの慢心を諌められ、身の引き締まる思いで再出発しました。

○再び生菜食に挑戦
 生菜食には2ヶ月前の変調のあった時点で戻しておりましたが、裸療法も今度は仕事を続けながら11回です。朝4時に起床、午前中に8回、午後は仕事をして、夜は3回、11時に就寝の日程は一刻の猶予も許されない時間との戦いでしたが、限界に挑むつもりで何とかやりとげました。
 やはり生菜食の効果はてきめん、「時間の問題」と宣告されてからもう3年になりますが、体調はベスト、声の状態も殆ど回復したようで生菜食をやっていれば絶対に大丈夫だとますます確信を深める今日この頃です。
 「失敗は成功のもと。」いい古された言葉ですが、あの時の失敗が私の生菜食生活の磐石を築きあげました。無我夢中で実践した1年目から1000カロリー足らずの低カロリーで疲れることもなく、社会人として人並以上の仕事もできるようになり、生菜食が何ものにも代え難い日常生活の一環になっています。

○おわりに
 朝、目を醒ますと、私は必ず大きな声をはりあげて声楽の発声練習のようなことをしてみるのが習慣になっています。これは喉の調子がおかしくなって以来ですから、もう7年くらいになりますでしょうか。
ガラガラの声、まるで出てこない声に「ああ、今日もだめか」と何度泣かされ、挫折感を味わったことでしょう。今では、低い音程から高い音程まで思う存分、高らかに発声できるようになりました。1度はあきらめかかった自分の声が見事に甦ったのです。このすばらしい気分がお解かりいただけますでしょうか。この幸せを胸いっぱいに「喉よ、ガンよ、ありがとう」と感謝の気持ちで1日の出発をすることにしております。
 私は、これからも「ガンと仲良く」と叫び続けていくつもりです。このことばが、あたりまえで通る社会になるまで。
                                                 (昭和60年8月記す)


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