◆私のガン体験

その年、昭和57年の3月17日、私は始めて甲田先生の診察を受けた。当時萱振の診療所であった。
1月中頃に電話で診察をお願いして、5月頃になると言われたのを無理にお頼みし、やっと許された念願の日であった。
  しかし、甲田先生の第一印象は、厳しいお顔であった。もっとハッキリ言えば、先生の目が私を見据えて鋭くギョロリと睨まれた(かのように思えた)が、今から想像するに、連日あらゆる病院を廻った末、いろいろ現代医学の医療なるものを試みてどうにもならなかったものしか訪れない、また世に難病奇病と言っても決して過言でない、そんな患者しか訪れない甲田先生にとって、お世辞にも一人一人の初診患者に温顔をお見せになられる筈がなかったのも至極当然のことだったであろう。そっと先生の足もとに目をやると、お彼岸とはいえその日は実に冷え冷えとしていたけれど、先生は素足にスリッパを無造作にはかれていたのが、やはり印象に残っている。などと言えば当時の私自身の精神状態が淡々としていて冷静なようであるが、もとよりそんなことはなかった。
  私は、自分の病歴を述べ、特にその年の半年程前から「AFF」値が、1週間から2週間おきぐらいの血液検査でどんどん上昇していることや、私が通院していた大病院での超音波検査の結果を黙ってカルテから見てしまったこと、私の縁者に医師が多く彼等もいろいろと検査してくれた上で話してくれた私の症状に対する忌憚ない(とおもわれる)意見などを、その時恐らく興奮気味に甲田先生に話したことだろう。
  その間、先生は終始無言で、やがてベッドの上で腹部を診察して下さった後に始めて、誰の紹介でここに来たのか、と聞かれ、「いえ先生のご本を読んでいましたから」と答えた記憶がある。それから先生は、半紙大の紙に書かれた「生食療法」の処方を書き示され、それはもう御承知のとおり、葉と根のものを各250g、玄米粉80g、食塩4g、レモン半個の食事を昼と夕に食べ、他は生水か柿茶を1日1升以上飲むだけという、通常一般の人なら誰しも、これが果して人間様の食べ物かと思われるものであった。
  先生は終始厳しい顔付きで、「これをやるしかないね」と私を見疑められた。但しその生食療法の処方を見せていただいた時、私にはそれほど大きな抵抗はなかった。すでに甲田先生の御本の何冊かを読んでいたし、先生を囲んでのいろいろな会合や講演会に出席したことがあったので予備知識は十分であった。私も「これしかないのだ」とその先生の下さった処方の書いた用紙を押し頂くようにして診察室を出た。
  こうして私は先生から、やっと念願の通院を許されたのである。待合室には多勢の患者さんが不安気に待っておられた。その中で印象に残るのは、中学生ぐらいの息子さんに付き添われた40代の男性の方で、原因が何か今は忘れてしまったが、視野狭窄と視力低下が進行して、やがて失明すると言われている患者さんがおられたことだ。しばらくしてその方も含め、何人かの患者さんが一緒に広間に集まり、山本事務長さんから「裸療法」や「温冷浴」のやり方、西式健康法六大法則等の説明や実技の指導などを受けた。
そのとき事務長さんから、やがて失明すると言われた眼疾の患者さんの治療よりも私の方が病気としては
「たち(性)が悪いよ」と言われ、しっかりやるよう激励されたのを昨日のことのように思い出す。
 こうして私は、初診の日の甲田医院を出た。しばらく歩きだして八尾駅へ向かう途中、猛烈な不安が私を襲った。歩きながら私は先生からいただいた生食療法の処方をもう1度読み返し、明日から、いや今日これから毎日現実にこれを実行して行かねばならないことを思うと、温冷浴の水の冷たさなども想像して、これが実現可能なものかどうか、もしできなかったらどうなるのだろう。それらも含めて自分の将来に対する大きな不安と恐怖が襲ってきて、思わず身奮いしたことを覚えている。
  早いもので、あれからもう3年以上もたつ。その間、3日間に始まり、2週間3週間の断食(寒天断食)に進み、それを何回繰り返したことか。その間のことについては、筆舌につくし難いと言えばオーバーになるかも知れないが、決して生易しいものでないこと言うまでもない。私もこの療法の諸先輩の教えを乞うて参考にしたし、また反対に時折電話でご相談を受けることもある。しかし、現実にはやるしかなかったのである。それ以外にどんな方法があると言うのか。それでも今ふり返って一番辛かったことは、当初まず口内炎に悩まされたことだ。電気店で買ってきたコーヒー豆用のミルで作った玄米粉は、情容赦なく口内炎の炎症にくっ付き、毎日痛みをこらえながら玄米粉を噛みしめたものだった。
 やがて、3ヶ月も立っただろうか、一種の瞑呟みたいなものだったのか、嘘のようにその症状は消えていった。
 初心の日から4ヶ月ほど経って、私は八尾に移り住んだ。甲田医院まで自転車で20分あまりで通院できる近さになった。それがまた大きな安堵感につながった。先生の診察を受けて3年以上たったけれど、その間先生は私には1度も聴診器を使われない。冗談にもしかすると先生は聴診器を持っておられないのではないかと思った位である。私の縁者の一人が医師になったとき、聴診器を持っていて始めて医者らしく見えたことを思うと、聴診器は医師のシンボルみたいなものだと思っていたけれど、甲田先生は手の触診である。それもみんな先生ご自身の貴重な御経験から生まれたもののようである。先生の御本で読んだ記憶があるが、先生は大阪大学医学部在学中から、自ら摺り鉢持参で登校され大根の葉っぱを摺り潰しその青汁を食事代りになされたという。私も含めそんじょそこらの2,3年の生食療法経験とは勿論訳が違うことは言うまでもない。
おこがましく言わせていたヾければ、甲田先生の療法は、私たち素人には、医学的理論もさることながら、やはり先生自らの闘病生活から生れ、先生ご自身で実証された尊い貴重な経験からの医学であることが、私たちの大きな信頼につながっているのだと思うのである。当初はせいぜい半年か遅くとも1年ぐらいで顕著な自覚症状が現れるのではないかと、大病院の医師に言われた私が、3年以上たった今、自覚症状らしいものは全くないと言っていい。
 とかく気になって仕方がなかった血液検査の結果、特に「AFP」値は、甲田先生にお任せしている。全く気にならないと言えば嘘になるのが偽らざる心境だが、また気にしたからどうなるものでないこともわかってきた。検査結果に一喜一憂するよりも、今日もまたかくてありけり、明日もまたかくてありなむ、と身体のどこにも苦しみがなく1日を過ごせたことを、私は感謝する。生食療法を始めた当時は、あさましいくらい高ぶってくる食物への執着心を断つ意味から、部屋の壁に、いろいろな格言ことわざを大書して張りつけたりしたこともあった。また、当時読んだ書物の中で、人生の極意を問われた一遍上人が「捨てこそ。」と答えられたというその言葉に感銘を受けた。そう言えば「疒」に「品」ものの「山」と書いて何と読むか。とにもかくにも、ものへの執着を捨てなければいけないと、やたら悲壮な決意をしたこともあったけれど、今日では、極力余計な気使いはせず、悪いことは考えないで淡々と暮らして行きたいと思うようになっている。自己暗示もかねて「私は健康である。さぁやろう」と声を出してシャツを脱ぐ「裸体操」で1日の日課が始まると言った具合である。
  以前、或る遠距離の患者さんの奥さんから、電話で相談をいたヾいたことがあった。内容は主人が生食をいやがるという。結局はそれだけのことだったが、正直に申し上げて今でも生食療法は辛いのです。ましてや山中に仙人のように一人棲息しているわけでもない。家族や知人友人もあれば、冠婚葬祭のような雑事もあり、いろいろ避けることの出来ない対人関係もある。いかなる堅い決意も、崩壊する可能性は周辺に一杯散らばっている。こうした点に十分家族あのものの配慮が欲しいと思う。「あなたは病気だから生食ですよ」という傍らで、家族は健康だからスキヤキを食べる根性では、「生食療法」が長続きしないことを私は保証する。家族がスキヤキを食べたけりゃ外で食べてくればいい。夫の健康を願う妻も、親の命が大切と思うのなら子も、わが子を救ってやりたいと思うのならば母も、いっしょに生食をしようという心掛けが1番大切なことではないだろうか。こんな偉そうなことを言って、口憚られるのですが、電話をかけてきて下さった患者さんの奥さんにそんなことを申し上げた。家族ぐるみみんなでやろうという意気込みが、その精神が、病人を健康にさせ、一家を幸せにする道ではないか。
  この道に、あまり近道や抜け道はないように思うけれどどうだろうか。あとは甲田先生の言われる通り、一生けんめいやりましょう。私はそう信じている。
  近況でただひとつ残念なことは、同じ「仲よくする会」に名を連ねておられる方の奥さんよりお電話をいたヾいた。訃報であった。外科医の先生であったその方とは、たった2、3度お目にかかっただけで、「仲よくする会」で並んで座らせていたヾいただけの御縁であったが、私より一つ年長というヾ世代の親しみと、御自身外科医であるという身分を離れて、私と同病の患者というお気持ちで接して下さったのが、私には殊更嬉しかった。奥さんが付き添っておられて会の席上でもよく御主人の肩をもみながら、甲田先生のお話を御夫妻で熱心に聞いておられたのが印象的であった。そのとき御自身外科医だけに、すでに大きな手術もなさった後での再発であり、かなり進行しているとお話し下さったので、ことのほか暑さの続く中でどうしておられるかと心配していたところだった。
  それでも7月中ばまで、御自身で患者の診療をされていて、その後するホスピスに入院されて7月末近く、実に安らかに眠りにつかれたという奥さんの電話でのお話しであった。
  それを聞いて私は素晴らしいことだと感動した。そして病気に、人生に負けられたとは思わなかった。これはこの先生に神様が与えられた「天命」だと思った。そして亡くなられる最後まで、甲田先生のことや、「仲よくする会」のこと、そして私が元気でいるかどうか、いつも気にかけていて下さったことをお聞きして、思わず私は涙ぐんだ。心から御冥福を祈りつゝ、私は今日生きている、いや生かされていることを神様に合掌し、そして今日あらしめて下さった甲田先生に、衷心より感謝する。
                                                      (60年8月)

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